読んだ本をすぐ忘れないために書くブログ

本当にすぐ忘れます、なんでだろう

『レイチェル』ダフネ・デュ・モーリア / “My Cousin Rachel” by Daphne du Maurier (1938)

舞台はイギリス・コーンウォール地方。幼い頃に親を亡くしたフィリップは、従兄アンブローズに育てられてきた。そんなアンブローズは冬の静養先のイタリア・フィレンツェで突然結婚をし、そのまま急逝してしまう。アンブローズの残した不審な手紙を手に、フィリップはまだ見ぬアンブローズの妻レイチェルを激しく恨むーアンブローズを死に追いやったのはレイチェルだ、遺産狙いに違いないのだーと。そんな折、レイチェルはアンブローズの遺品と共にコンウォールへフィリップを尋ねてくる。レイチェルとの会合を果たしたフィリップの中から恨めしさはたちまちに消え、心を惹かれるようになってしまう…。

デュ・モーリアといえば『レベッカ』が有名で、数年前にもNetflixで再実写化されたばかり。どの作家も代表作ばかりに手を伸ばしがちなので、たまには他の作品を…と思って選んだのが”もう一つのレベッカ”として銘打たれていた『レイチェル』である。

幕開け早々、言うまでもなく危険な香りがぷんぷんするレイチェル。齢24歳の青年フィリップに対して、一回りほど歳の離れたレイチェルは、フィリップがいくら優位に立とうとしても、一枚上手の話術で軽々あしらってしまう。そんな話し上手なレイチェルの様子が会話文からありありとわかる。それと同時にレイチェルに心を許してゆくフィリップの心境も手にとるようにわかり、みるみるとレイチェルに飲み込まれてゆくフィリップを見てハラハラするだろう。次第に周りの大人たちの言葉にも耳を貸さなくなり、レイチェルのために大胆な行動をとり始めるフィリップ。その上、25歳になったらアンブローズの遺した財産を継ぐと言うのだからまあ大変。

アンブローズという死者を通して繋がったフィリップとレイチェルの関係。フィリップしか知らないアンブローズとレイチェルしか知らないアンブローズがいる。そしていつでも2人の間にはアンブローズの影が潜む。レイチェルへ惹かれ、暴走気味になるフィリップを度々現実に引き戻すのは亡きアンブローズの姿だ。

そんなフィリップの行く末とレイチェルの本性、アンブローズの死を取り巻く疑問に悩まされて読み進めることになるだろう。これが不穏な空気漂うデュ・モーリアのゴシックロマンの世界。

 

『無垢の時代』イーディス・ウォートン / "The Age of Innocence" by Edith Wharton (1920)

一八七〇年代初頭、ある一月の宵。純真で貞淑なメイとの婚約発表を間近に控えたニューランドは、社交界の人々が集う歌劇場で、幼なじみのエレンに再会する――。二人の女性の間で揺れ惑う青年の姿を通じて、伝統と変化の対立の只中にある〈オールド・ニューヨーク〉の社会を鮮やかに描き出す。ピューリッツァー賞受賞。

社交界と聞けばオースティンの作品だとか『ダウントン・アビー』、『ブリジャートン家』シリーズで見るような華やかで煌びやかな集まり…(若者にとっては重要な恋愛市場!)を思い浮かべてしまうが、ウォートンが描くのはシビアで閉鎖的なコミュニティとしての社交界。広い目で見れば近かれ遠かれ親戚の集いみたいなものである。でも、これがウォートンが忠実に描き出した「オールド・ニューヨーク」の在り様。

1回目に読んだときに、初っ端から大量に家名が登場して大混乱…あまりにもややこしくて、ちょっとスルーしながら読んだところ、節々で「誰だよ!」となってしまったので、2回目はまとめつつ読み進めた。謎解きレベルで各家系が複雑に絡み合っているので考察してみた。

・ミンゴット家はサウス・キャロライナのダラス家との(ソーレイ家を通じての)関係

フィラデルフィアのソーレイ家の嫡流オールバニーのチヴァーズ家との関係

・ユニヴァーシテイー・プレイスのマンソン・チーヴァー家

・ラッシュワース家は愚かしい縁組をする由々しき傾向がある

ロングアイランドのレファーツ家

オールバニーのチヴァース家には一世代おきに精神障碍者が出るのでニューヨークの達者たちは縁組を避ける

・ワシントン・スクエアのダゴネット家――これはイギリスの地方の古い名家の出

・ド・グラース伯爵と婚姻関係のラニング家

・ヴァン・デル・ライデン家――マンハッタンの初代オランダ総督の直系の子孫

英米問わず、作品を読むときに役立つ知識として、息子のファーストネームに母方のファミリーネーム(苗字)を名付ける場合があると言うこと。例えば、主人公ニューランド・アーチャーの場合、母親の旧姓はアデライン・ニューランドで、ファミリーネームであるニューランドを息子のファーストネームとして名付けている。基本的に良い家柄の場合が多いようだが、現代でもこのような名付け方をする人もいるらしい。

上述のように多くの家名が登場するが、この家名がファーストネームの登場人物も複数いるため、作品内では言及されていないものの、その人物の母親の出身・他の家系との繋がりがだいたい推測できる。

あらすじ

主人公のニューランド・アーチャーはメイ・ウェランドと婚約中で、メイはキャサリン・ミンゴットが家長として君臨するミンゴット一門の娘である。ニューランドの幼馴染であり、メイのいとこでもあるエレン・オレンスカはヨーロッパでの結婚生活がうまくいかずニューヨークに帰ってくる。エレンは両親の死後、おばのメドーラに引き取られ、長くヨーロッパで暮らしてきた。しかし、規律を重んじる厳格なニューヨークの社交界において、エレンは好奇の目に晒される。親族ですら体裁ばかりを気にし、エレンの存在を厄介に思う人も多い。そんな中、主人公ニューランドはメイを愛しながらも、エレンにも惹かれるようになってゆく。

ミンゴット一門から広がる家系

とにかく登場人物が多く、呼び方もファーストネームが登場したかと思えば○○夫人などと呼ばれたり様々で、読み始めは混乱するので、家系図にまとめることにした。

ミンゴット老夫人の子供たちの家系はだいたい描写があったが、問題はメドーラである。メドーラはエレンの「おば」と単に説明されているけど、結局のところ、メドーラとミンゴット家との繋がりはどうなんだ?ということでメドーラの出自を辿るための要素を探偵よろしく書き出してみることに。

①エレンのおば

②ミンゴット老夫人の娘

③最初の夫はマンソン侯爵

④メドーラの母はラッシュワース家出身

⑤エレンの旧姓はミンゴット

⑥メドーラに兄がいる

第一に「ミンゴット老夫人の娘」ということなので、ミンゴット老夫人の実の娘orミンゴット老夫人の義理の娘(息子の嫁)かと想定していたものの、メドーラ母がラッシュワース家出身とのことなので、ミンゴット老夫人(スパイサー家出身)の実の娘ではないことがわかる。

また、マンソン侯爵はミンゴット姓でないため、ミンゴット老夫人の息子でもなく、結局メドーラは義理の娘でもない。もうこの時点で娘じゃないやん!と思ったものの、いろいろ調べると、19世紀頃だと義理の親子や義理の義理の親子でも単に親子と呼ぶといった説明を見つけたので(真偽不明)、とりあえず、メドーラはミンゴット老夫人の娘息子の義理のきょうだいと仮定してみる。

エレン側からアプローチすると、エレンの旧姓がミンゴットなので、エレンの父方の祖母がミンゴット老夫人となる。ということで、メドーラはエレンの母方のおば。そうすると、メドーラはエレン母の姉妹エレン母の義理の姉妹(兄弟の嫁)という2説が残る。気になるのは、メドーラの母親が由々しき縁組をしがちなラッシュワースの出ということ。もしメドーラとエレン母が姉妹ならエレンもラッシュワースの血をひくことになるが、そのあたりの言及はなく、あまり評判の良くないラッシュワースとミンゴットが縁組する可能性はかなり低いので、エレン母はラッシュワースの血縁ではないだろう。ということで、メドーラをエレンの母親の義理の姉妹だと仮定した。(ここまで来ると、メドーラをミンゴット老夫人の娘と呼んでいいのか…?)

問題はメドーラの兄について。エレンが両親の喪に服している頃、メドーラは海外からアメリカに帰省し、実の兄(her own brother)の葬儀に参加したと言う記述がある。文脈的にエレンの父=メドーラの兄と読めてしまうのだが、上述のようにこれはあり得ない。もちろん義理の兄であれば辻褄が合うが、わざわざ実の兄と書かれているのでエレンの父とは別で、メドーラに兄がいると考えるのが無難だろうか?(ネットで調べたところウォートンの設定ミスでは?と書いている読者もいた)

1870年頃

ということで、上記がすべての情報を総括した家系図となった。(灰色字→故人、灰色掛け→性別不明、点線→仮定or詳細不明)

メドーラと同様、仮で記載しているのがボーフォートとミンゴットの繋がりだ。「レジーナはミンゴット老夫人の大姪」と言う情報しかないが、故マンソン・ミンゴットの兄弟姉妹からレジーナに繋がっていると仮定した。ミンゴット老夫人は、父のボブ・スパイサーが結婚後1年で失踪しており「16歳になるまで母娘2人で暮らした」と記述があるので、兄弟姉妹はいないと考えていいだろう。また、「ミンゴット家とサウス・キャロライナのダラス家との(ソーレイ家を通じての)関係」という表現がされていたので、ミンゴット家とダラス家の繋がりはこのあたりだろう。(マンソン・ミンゴットの兄弟姉妹がソーレイ家の人と結婚し、その子供がダラス家の人と結婚して生まれたのがレジーナ?)

 

※以下は詳細不明箇所※

①「ジュリア・ミンゴット」という名前が一度だけ登場したものの、特に言及もされなかったので詳細は不明だが、ミンゴット老夫人の子供のうち、外国に嫁いだ2人の娘のどちらかの可能性?

②ヴァン・デル・ライデン氏は「オレンスカ伯爵夫人は前から親戚のようなものだ―メドーラ・マンソンの最初の夫との縁でな…」と述べているが詳細不明。

③レジー・チヴァーズはミンゴット一門と記載があるが、詳細不明。おそらく「ユニヴァーシテイー・プレイスのマンソン・チーヴァーズ家」の家系?

④アーチャー夫人とルイザは「いとこ」で、アーチャー家とヴァン・デル・ライデン家は親族関係があると記載があるが詳しい繋がりが不明。スペースの都合上、ニューランドのいとこのヴァンディ・ニューランドは家系図にいれなかったが、母方のいとこである(おそらくニューランドの結婚式で介添人として登場したヴァン・デル・ライデン・ニューランドと同一人物と考えられる)。ヴァンディの母親がヴァン・デル・ライデン出身の可能性が高いので、この点ではアーチャー家とヴァン・デル・ライデン家が親戚なのは推測できる。また、ニューランドの話ではデュラック家におば達がいるとのことなので、これもヴァン・デル・ライデン家を通じた関係かと考えられる。

(仮定の部分も多く、読み落としや解釈ミスがあるかもしれません!何か発見があればコメントお待ちしてます!)

閉鎖的な「オールド・ニューヨーク」

女性は家事をし、男が外で働くのが当たり前だった時代に、女性の社会進出を目指す人が好奇の目で見られたように、どんな時代においても新しい考えや価値観を、他人に理解し、受け入れてもらうのはなかなか困難なことである。個人間ならまだしも社会に浸透させるときたら大したムーブメント!特に凝り固まったニューヨークの社交界においては新しい価値観などもっての外で、規律と伝統を守り続けることが第一で、それであってこそ威厳が保たれるのである。

エレンの希望は離婚をして、元のエレン・ミンゴットとして自立して暮らすことで、そのためにニューヨークに帰郷したが、親族は快く思わず、エレンが夫の元に帰ることを望んでいた。たとえ法律が離婚を許しても、社会の慣習が許さない、それがこのコミュニティの考え方だった。ミンゴット夫妻が”エレンを迎えて”晩餐会を開催することにしたのだが、多くの招待者が不自然に誘いを断る事案も起こり、ニューランドもエレンの問題に悩み始める。法律関係の仕事に就くニューランドはミンゴット家の頼みで、エレンにヨーロッパへ帰るよう促す役目を引き受ける。あまり乗り気ではなかったのだが、ニューランドはメイと結婚することでエレンの親族になるため、「外聞の悪い離婚訴訟を抱えている一族と結婚したいのか?」と迫られ半ば強制的に。

一方のエレンは、ヨーロッパでの暮らしが長く、アメリカ的な、特にニューヨークの考え方や常識から外れた行動がみられる。まだ自分の置かれている立場や周囲の反応に気づけておらず、ニューヨークには存在しない「自由」を求めている。

「上流?そんなことを、皆さんは大事に思われるのですか?自分なりの流儀を創り出そうとなさればいいのに。でも、これまでわたくしは、あまりに自由に生きてきたのでしょう。」(p.113)

そんなエレンに苛立ちを覚えるものの、ニューランドは19世紀頃の男性としては珍しく、女性も男性同様に自由であるべきだという思想を持っていたため、他者が干渉すべき問題ではないのだと感じている。郷に入っては郷に従えというけれど、エレンに対する風当たりは強い。エレンと親族の板挟みになったニューランドはヨーロッパ的な言動について「よその町ではやっていることです。それでも世界は続いていくんです。」と説明するが、母アーチャー夫人は「ニューヨークはパリでもロンドンでもありません。」と一蹴。まさに「よそはよそ!うちはうち!」、ニューヨークは寛大さなど期待できない場所なのである。

対照的な二人の女性と花

ニューランドは婚約中のメイに毎日スズランの箱を送ると言うなかなかマメな人間なのだが、ある日スズランを探しに花屋へ行った際、美しい黄色いバラを見つける。

名刺に一言書き添え、封筒を待つ間、緑でいっぱいの店内を見まわしていたニューランドの目は、黄色のバラの一角で止まった。太陽のようなこんな金色は見たことがない、と思い、このバラをスズランの代わりに、メイに贈ろうかと最初、衝動的に思ったほどだった。けれども、その燃え立つような美しさには、どこかあまりに豊潤で強すぎるところがあって、メイにはそぐわなかった。ニューランドは突然気が変わり、何をしているのか自分でもほとんどわからないままに、別の箱にバラを入れるよう花屋に指示していた。そして二つ目の封筒に名刺を入れると、封筒の表にオレンスカ夫人の名前を書いたが、向きを変えた瞬間にまた名詞を取り出し、空の封筒だけを箱の上に置いた。(p.123)

メイは純粋と言う点だけは誰にも負けないほどで、花はスズランしか身に着けない、というほど純粋を体現化したような女性。スズランの花言葉は「純粋、純潔・謙虚」。ただしスズランには毒もあるので取り扱いには要注意と言ったところ。一方で、バラの花自体には「愛・美」といった一般的な花言葉があるが、黄色いバラには「嫉妬・不貞」といった意味も含む。まさに黄色いバラをプレゼントしたことを皮切りにニューランドを待ち受けている運命を示唆しているようでもある。

また、ニューランドがエレンにバラを贈った際、他の男性陣もエレンに花を送っているし(ボーフォートはラン、ヴァン・デル・ライデンはカーネーション)。また、ニューランドがエレン宅を尋ねた際、部屋にスミレを添えた真っ赤なバラ花の花束が届けられている。誰かがエレンに惜しげもなく愛情を示していることをニューランドは察しているはずだ。このように、全体を通じて花が引用されている箇所が多いので各場面で花が持つ意味合いを考えて他見るのも面白いかもしれない。

 

※以下、結末に関わるネタバレを含みます。

変化するニューヨーク・ソサエティ

1900年頃

30年が経過し、次はメイとニューランドの子供たちが結婚する頃になっていた。長男ダラスと結婚したファニー・ボーフォートの父は、30年前に破産し、社交界で煙たがられていたあのボーフォートで、母はその愛人だった女である。ファニーは両親と共に海外で暮らし、両親の死後、アメリカへ帰郷した。彼女の境遇はまさに30年前のエレンと同様であった。しかし、社会は変わり、社交界も親族も彼女を当たり前のように受け入れたのである。

世界がどれほど大きく変化したか、これ以上はっきりと示す事実はないだろう。この頃の人間は忙しすぎる――改革、「運動」、さらには一時的流行や執着やくだらぬことにかまけて、隣人など気にしない。それに、他人の過去にどんな意味があるだろう――すべての社会的原子が同じ平面上でくるくる回っている、巨大な万華鏡のような世界で。(p.537)

ファニーがパリ滞在時、エレンに世話になったこともあり、ダラスもエレンの存在を認知していた。「父さんにとってファニーみたいな人だったんでしょう?」と。

3つのエンディング

本書の解説で触れられていたようにウォートンは3種類のエンディングを用意していたようだ。一部しか触れられていなかったので調べてみた。

①ニューランドはメイと結婚するが、その後エレンと共にフロリダへ駆け落ちしてしまう。しかし、社交界の外での暮らしに慣れず、エレンとの関係も悪くなり、そのままニューヨークへ戻る。

②メイはニューランドとの婚約を解消し、他の人と結婚する。ニューランドはエレンと結婚するが、社交界の中にいたいニューランドに対し、エレンは社交界での暮らしに耐えず、離婚。エレンはヨーロッパに戻り、ニューランドはその後を母姉と暮らす。

③メイの妊娠が発覚し、エレンはヨーロッパに帰ってしまった。それから30年が経過し、メイはすでにこの世を去っていた。ニューランドは息子ダラスとともに旅に出て、パリを訪れる。義理の娘となるファニーがパリ滞在時にエレンに世話になった縁もあり、ファニーの根回しで30年の時を経てエレンと再会する機会を得るが、再会する直前、ニューランドはその場を去る。

ウォートンはただ男女の愛憎劇を主軸としたわけではなく、あくまでもオールド・ニューヨークの姿をありありと描くために、男女を登場させていたに過ぎない。ifストーリーとなったこの2つのエンディングではいずれもニューランドとエレンが一度は結ばれる結果となっているのに対して、採用されたエンディングではエレンと再会するチャンスが訪れたものの、それを掴むことなくニューランドは自らその場を去ってゆく。

エンディングを読んだ第一印象として、ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を彷彿とするものがあった。どちらも当時の社会風俗を写実的に描いたもので、舞台設定はもちろんのこと、一度は結ばれることを断念した男女2人が再会する機会を得たものの、結局お互いがそのままの人生を歩むことを選択する、といった静かで余韻の残る締め方だ。ヘンリー・ジェイムズとイーディス・ウォートンは親交があり、またウォートンはジェイムズの後継作家として位置付けられることもある。

https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=21225&item_no=1&attribute_id=28&file_no=1

上記論文を読んでいたところ、ジェイムズのアドバイスで、ウォートンは自分のよく知っている身近な世界を描き始めたようだ。ジェイムズとウォートンの違いを単に女性的・男性的な雰囲気の違いと言うのは安直すぎるが、個人的な私の感覚ではウォートンのほうが女性らしい目線で、そのリアリズム、細やかな心理描写はイギリスでいうところのオースティンのよう。(ジェイムズは時に難解で個人的には読了に苦労する部類…)

m-dorsia.hatenablog.com

純粋な女の仮面

ニューランド、メイ、エレンの人間模様は簡単に言ってしまえば不倫の話になってしまうのだが、ゲスい話に見せないのがウォートン女史の手腕であろうか、ニューランドとエレンが惹かれ合うのもまあ自然な流れだと読めてしまう。あたかも自然の摂理のように精神的に結びついてしまっただけで、エレンも自分の立場をわきまえているし、メイとニューランドの仲を引き裂こうなんて考えていないので、結ばれない2人となんだと分かった上での冷静な態度。

一方、大らかな性格のメイは、エレンがいとこということもあり、ニューランドがエレンに対して優しくすること、気にかけていることを「なんて親切なの!」ととても好意的に見ていた。まさにスズランが示すように純粋なんだねメイは…可哀そうに…と思っていたものの、ニューランドがエレンに惹かれていることに気づき始めると、徐々に冷ややかになって、ふとした言動からニューランドをチクチク刺している。結局エレンがヨーロッパへ戻ることを決めることになったのもメイの一言だった。なんてコワイ子!と思ったものの、30年後にダラスが語る話では、メイは死の直前にダラスに対して「昔、お母さんが頼んだら、お父さんは一番欲しいもの(=エレン)を諦めてくれた」と。

この三角関係の在り様を見て思い出したのが、ウォートンの短編『ローマ熱』である。二人の中年女性ミセス・アンズレイとミセス・スレイドの会話から繰り広げられている。ふとした流れで、ミセス・スレイドは若い娘時代にミセス・アンズレイに対して行った悪戯を告白する。ミセス・アンズレイがミセス・スレイドの婚約者に恋愛感情を抱いていたため、ミセス・スレイドはその男性を完全に自分のものにするためにしてしまった愚かな行動だった。これをきっかけにミセス・アンズレイもミセス・スレイドにとある事実を打ち明けるのだが、その事実はミセス・スレイドの悪戯を遥かに凌駕する強烈なダブルパンチで…というお話。この男女3人の構造は『無垢の時代』に通じるものがある。メイがニューランドを自分のものにするため、エレンをヨーロッパに帰すきっかけをつくったメイは「純粋」の仮面の下から女の欲を覗かせていた。これがスズランの毒だろうか?

『リヴァトン館』ケイト・モートン / "The House at Riverton" (The Shifting Fog) by Kate Morton (2007)

前回の記事で、取り上げたサラ・ウォーターズ。ウォーターズが好きな人はケイト・モートンも好き。モートンが好きならウォーターズも好き。それがこの世の真理!ということで今回はケイト・モートンを読んでみることに。

新しく何かいい本に巡り会いたいなと思ったときは、Twitterで「#名刺代わりの小説10選」や「#20XX年のベスト10」などのハッシュタグを使って、自分の好みの本のタイトルを検索して、読書好きの方のツイートを見て探すようにしているが、ウォーターズ好きな人はだいたいモートンも書いてるし、モートン好きな人はウォーターズを書いている。そして安定のAmazonのおすすめも、ウォーターズを見ていたらモートンをごり押ししてくる。

ゴシック風の作品が好きな私は、廃版ながら高評価の『リヴァトン館』を無事ゲット。不人気なわけではなく出版元の倒産が原因で廃版しているよう。なんてもったいない…。お屋敷で繰り広げられる家族の物語、過去の記憶、秘密とその告白…この手の要素がある作品に目がなく、まさに『リヴァトン館』もその類だ。もちろん、モートン自身はあとがきで「ゴシック風の技法」を用いる小説の要素を以下のように述べている。

過去につきまとわれる現在。家族の秘密へのこだわり。抑圧された記憶の再生。継承(物質的、心理的、肉体的)の重要性。幽霊屋敷(とりわけ象徴的なものが出没する屋敷)。新しいテクノロジーやうつろいゆく秩序に対する危惧。女性にとって閉鎖的な環境(物理的にも社会的にも)とそれに伴う閉所恐怖。裏表のあるキャラクター。記憶は信用ならないこと、偏向した歴史としての性格を帯びること。謎と目に見えないもの。告白的な語り。伏線の張られたテクスト。(p.328-329, 著者解題, リヴァトン館(下))

まさに本書にはこの要素が盛り込まれているわけで、どのような秘密や過去が明らかにされてゆくのかを愉しみに読んだ。

あらすじ①

老人介護施設で暮らす98歳のグレイス。ある日、彼女のもとを新進気鋭の映画監督が訪れる。1924年に「リヴァトン館」で起きた悲劇的な事件を映画化するにあたり、ただひとりの生き証人であるグレイスにインタビューしたいと言う。封じ込めていた「リヴァトン館」でのメイドとしての日々がグレイスのなかで鮮やかに甦る。ふたりの美しいお嬢様、苦悩する詩人、厳格な執事、贅を尽くした晩餐会―そして、墓まで持っていこうと決めたあの悲劇の真相も。死を目前にした老女が語り始めた真実とは…。滅びゆく貴族社会の秩序と、迫りくる戦争の気配。時代の流れに翻弄された人々の愛とジレンマを描いた美しいゴシック風サスペンス。イギリス『サンデータイムス』ベストセラー1位、amazon.comベストブック・オブ・2008。

本作は、98歳のグレイスの視点で語られる。若かりし頃にリヴァトン館で過ごした日々とその悲惨な事件を、誰れも知らない真実を、ゆっくりと回顧していゆく物語。映画『タイタニック』のローズのように、年老いて死が目前に迫った時、過去の記憶を思いめぐらし、真実を誰かに託そうとする。現代と過去が交互に入り乱れ、少しずつ明らかになっていく。

時は現代、介護施設で暮らすグレイスの元に若き映画監督アーシュラから手紙が届く。グレイスが少女時代にメイドとして勤めていたリヴァトン館で約70年前に起こった悲劇の物語を映画化するため、グレイスに是非ともインタビューをしたいという。「イギリス詩壇の新星<ロビー>が社交界の盛大なパーティーの夜に、暗い湖のほとりで自殺する。目撃者はふたりの美しい姉妹<ハンナとエメリン>だけ、彼女たちはその後たがいに二度と口を利かなくなる。ひとりは詩人の婚約者で、もうひとりは愛人とうわさされていた」、それが一般に知られたリヴァトン館の悲劇だった。アーシュラの曾祖母がこの姉妹と親戚関係にあり、親子代々話継がれてきた物語なのだという。しかし、グレイスは誰にも明かしていないその夜の真実を知っている。そして、グレイスは孫のマーカスのためにテープを作り、自分の秘密を打ち明けることを決意する。

※※本書のネタバレを避けたい人は、あらすじ②と③は避けてください※※

家系図<1914年>

1914年のハートフォード家 ※灰色は故人

あらすじ②上巻

1914年、グレイスはメイドとしてリヴァトン館で働くことになった。独り身の母を田舎に残し、何故、未経験のグレイスが大きな屋敷に勤めることになったかというと、グレイスの母親も同館でメイドとして働いており、非常に評判がよかったことから—蛙の子は蛙―きっとグレイスも巧く働くだろう、ということだった。しかし母はグレイスにリヴァトン館での思い出は何一つ語らないのだった。

ハートフォード家の孫たちハンナ、エメリン、デイヴィッドがリヴァトン館に滞在した際に、グレイスは3人と出会い、親交を深め始める。特に同い年<14歳>のハンナとは意気投合し、仲を深めていく。

クリスマスにデイヴィッドは友人のロビーを館に招待する。妹エメリンはロビーに夢中になるが、姉ハンナはあまり靡かないようだった。時は1914年から1915年へ移り変わろうとしており、ヨーロッパでの戦争が終息する見込みはなかった。ロビーやデイヴィッドは参戦の意思を示す。

ある日お使いで町へ出かけたグレイスは秘書養成所の前でハンナと遭遇する。その当時の女性としては珍しく、女性の社会進出を希望していたハンナは、こっそりタイプや速記の秘書の授業を受けていた。グレイスもこっそり秘書になろうと通っているのだと思い込んだハンナは「これはわたしたちだけの秘密よ」と言う。ハンナと秘密を享受できたことを嬉しく思い、グレイスは敢えて否定しないのだった。

フランスでアシュベリー卿の長男ジョナサンが戦死し、その翌週、失意のアシュベリー卿も発作によりこの世を去った。その二人の合同葬式の翌日、ジョナサンの妻ジェマイマが懐妊したとの話題が飛び込んでくる。当主アシュベリー卿がなくなった今、次期当主問題が囁かれるハートフォード家。もしジェマイマの子供が男なら、その子供が当主となり、もし子供が女なら、次男フレデリック(ハンナたちの父親)が当主となる。

実家に帰った折、グレイスは母にハートフォード家の近況を語る。母は「かわいそうに。かわいそうなフレデリック」と口にしたのだった。その夕方、館へ戻ると、ジェマイマが産気づいていることを知らされる。生まれた子供は女の子だった。そして新しい当主<アシュベリー卿>はフレデリックとなった。1917年、戦火は衰えず、ついにハンナとエメリンの兄デイヴィッドが戦死した。

戦時中、業績が落ち、危機に瀕したフレデリックは、アメリカ金融界で名を馳せるラクストン氏をパーティーに招待した。ラクストン氏の息子で、後の夫となるシオドア<通称テディ>と出会う。結婚に全く興味のないハンナだったが、今や没落しかけたハートフォード家では、フレデリックも未婚のままで、一家の将来はハンナの結婚に掛かっていた。ハンナはテディから求婚されたことを一番初めにグレイスに打ち明けた。しかし、フレデリックラクストン氏との関係がうまくいっておらず、ハンナがラクストン家と親族関係になることに反対した。そして結婚するならばリヴァトンへは戻ってくるなと。1919年、ハンナとテディは結婚し、ハンナはグレイスを専属の侍女として引き抜き、ロンドンへと立った。

あらすじ③下巻

ロンドンでの新しい暮らしを始めたハンナ。2人は子供に恵まれず、夫婦生活もうまくはいかなかった。そこへエメリンのスキャンダルが飛び込んでくる。友人の邸宅を訪問していたエメリンはそこから男と共に逃げ出したというのだ。ハンナと対象的にエメリンは結婚を夢みていた。倍も年上の既婚の男と駆け落ちしようとするが、ハンナそこへが割り込んだこともあって、男から結局捨てられてしまったエメリン。徐々にハンナとの間に確執が生まれ始める。

翌朝、ハンナの部屋を掃除していると、グレイス宛ての手紙が置いてあった。中を開けるとハンナからの秘密の手紙で中身はすべて速記で書かれていた。速記が読めないグレイスはリヴァトン時代に知り合った秘書のルーシーを訪ねる。ルーシーに代読してもらうと、エメリンの事件でハンナを助けたお礼と「信用できるグレイス。侍女というより妹のような人へ」と添えられていた。

時は1922年へと移り変わった頃、グレイスの元に母の訃報が届く。久々に実家へと戻り、葬儀に参加すると、遠くから葬列を眺めるフレデリックの姿があった。伯母は「よくもまあ顔をだせたもんだ」と吐き捨てる。ハンナとグレイスが去ったあと、フレデリックがひどく落ち込んでいたことを聞き、これまでひた隠しにされてきた自分の出自、父親の存在について思いめぐらすグレイスは、自身の父親がフレデリックであることを悟る。そして、ハンナとは腹違いの「秘密の姉妹」だと。

ある日、ハンナの自宅にある紳士が訪れる。昔借りたものを返したい、と本を片手に現れた男はロビーだった。そこから再び姉妹とロビーとの交流が始まる。社交界デビューを済ませたエメリンは広い交友関係を持ち、毎晩パーティーに参加するなど派手な生活を送っていた。エメリンはロビーへの愛情を募らせており、度々二人で出歩くことも増えていった。しかし、その裏でハンナとロビーも逢瀬を繰り返しているのだった。世間向きにはエメリンを隠れ蓑にして。

精神的な戦争の後遺症を負っていたロビーは、自由を得るため、ハンナと共に逃げ出す計画を立て始める。ハンナはエメリンとロビーの関係がお遊びだと信じていたが、情熱的なエメリンは一方的にロビーを本気で愛していたことを知る。ロビーとの関係を諦めるように促すものの、エメリンは「ここから先はおたがい各自が選んだ人生を歩むことにしない?」と姉からの干渉を遮った。

1924年の夏、ハンナとテディはリヴァトン館へ戻ることとなり、リヴァトン復興を祝って祝宴が開かれることとなった。そのパーティーであの現代にも語り継がれる惨劇が起きた。そして事件から3か月が経ち、ハンナは懐妊したが、事件のショックで失意の内にかつての活気を失い、幽霊のようにふらふら屋敷を歩き回る日々。一方、エメリンは社交界で華々しく存在を露わにし、映画などに引っ張りだこだった。ショック状態のハンナを見舞うように、テディが手紙を送ったがエメリンが返ってくることはなかった。ハンナが臨月に近づいた頃、エメリンは事故でこの世を去った。あの忌々しい事件はハンナとグレイス<秘密の姉妹>の関係をも変えてしまった。ある日ハンナはグレイスに意味深な言葉を告げた、「あなたは速記が読めない」と。そして娘フローレンスを出産したハンナはそのまま死んでしまった。

フローレンスの父親がどちらだったのかは不明だったがロビーであろうというのがグレイスの見込みだった。テディも気づいていたのか娘を引き取らず、ジェマイマが引き取りラクストンではなくハートフォードの娘として育てられた。

では、「イギリス詩壇の新星<ロビー>が社交界の盛大なパーティーの夜に、暗い湖のほとりで自殺する。目撃者はふたりの美しい姉妹<ハンナとエメリン>だけ、彼女たちはその後たがいに二度と口を利かなくなる。ひとりは詩人の婚約者で、もうひとりは愛人とうわさされていた」というあの物語は終わったのか?グレイスの語る真実は違った。

1924年のパーティーの日、それがロビーとハンナの計画実行日だった。パーティーの夜にハンナの部屋に入ったグレイスは2通の手紙を見つける。一通はエメリン宛、もう一通はグレイス宛てだった。自分宛ての手紙を開封したが速記で書かれており、グレイスは読むことができず、慌ててエメリン宛の手紙も封を切ってしまった。その手紙には湖での自殺を仄めかす内容が書かれており、グレイスはエメリンと共に急いで湖へと向かう。

湖でハンナを見つけたが、ハンナはエメリンの登場に驚きを隠せず、あの手紙はジョークだったと告げる。本当は湖からの逃亡を自殺に見せかけるための手紙だったが、グレイスの勘違いで、エメリンに早く伝わってしまった。ハンナはエメリンにパーティーへ戻るよう促したが、ロビーがそこにいるのをエメリンは目撃し、ロビーとハンナの関係を悟り、逃亡を阻止しようとする。銃を取り出したエメリンをなだめ、手から銃を奪うハンナ。エメリンが邪魔なロビーは、ハンナにエメリンを打つように命令する。頑なに拒むハンナから銃を奪おうと迫るロビー。そしてハンナは引き金を引いた。そして、駆け付けた人々にエメリンは「ロビーが自殺した」と告げる。

では、あの速記の手紙はなんだったのか?グレイスは事件から何年か経って、ついに知ることになる。「私はロビーと湖から逃げる。自殺を装うが、無事だということはあなたに知らせておきます。もう1通のエメリン宛の手紙は、事件の翌日にエメリンの手に渡るようにしてください。何があっても今夜エメリンを絶対に湖に近づけないでください…あなたは秘密の扱いの達人だと信じています」と記されていた。

そして現代の世界ではアーシュラが制作したリヴァトン館の映画が完成した。映画の結末できっとロビーが自殺するのだ、とグレイスは確信している。そこで、アーシュラの祖母の名前が「フローレンス」だと判明する。アーシュラはジェマイマに引き取られたフローレンスを通じて代々一家の物語を語り継いできた。そしてグレイスは、自分の最期が迫っている中、グレイスしか知らない物語を孫のルーカスに託した。

家系図<1999年>

感想

あらすじは、グレイスの恋愛話や、途中差し込まれた現代のグレイスの話など、他にも枝分かれした部分が多数あったが、ハートフォード家の物語を中心に書いた。

本書を選んだ一つの理由でもあるが、メイド視点で描かれる物語好きだ。メイドは上階の人に仕えながら日々を過ごし、使用人たちの中で見聞きしたこと、上階の人々から盗み聞いたこと…どちらの世界の事情も収集できてしまう立場だと思う。ご主人様は使用人の住むフロアに入ったりしないし、そこの会話を聞く価値もないと思っているだろうけど、メイドはお客様に給仕をしていれば、なんでも耳に入ってくる。実際に、グレイスも客間で見聞きしたことを、ハンナに伝達する場面もあり、ある意味怪しまれないスパイのような存在。何年か前に『高慢と偏見』をメイド視点で語りなおした作品が話題になっていて、メイドの視点の面白さに気づいた。

また、家系図を広げながら読むのが大好きな私にとっては、後半になるにつれびっくりするぐらい家系図が大きくなっていって大満足だった。あの悲劇の引き金は何だったのか?なぜグレイスがそれを秘密にしないといけないのか?そう思いながら読み進めて、最後にグレイスが背負ったものの重さを知る。いい意味でも悪い意味でのハンナとグレイスは「秘密の姉妹」だった。秘密を持つことのひそかな内に秘めた喜びに対して、実際は非常に脆く、秘密を持ってしまったが故の落とし穴にお互いがハマってしまう。

最期に、本書のあとがきで、モートンが参考にした資料や作品の数々が列挙されていて非常に感動した。そして、この作品のようなゴシック風小説が読みたかったら…とおすすめ作品をいくつか挙げてある。なんて優しいのモートン…そのうちの一冊がトマス・H・クックの『緋色の記憶』で、『リヴァトン館』を読んだあとにすぐ読んだが、かなり共通点、モートンが意識したであろう箇所が多く、かと言ってパクリとかではなく、様々なリスペクトありきの『リヴァトン館』なんだと確信した。その他にもいくつかおすすめ作品が挙げてあったし、モートンの作品はまだあるので地道に読んでいこうと思う。

 

(読みながらあらすじメモとってたら長すぎてただのネタバレブログ状態でごめんなさい…)

『荊の城』サラ・ウォーターズ / "Fingersmith" by Sarah Waters (2002)

BBC100選リーディングチャレンジ14冊目

Amazon等でオースティンやブロンテなどイギリスの女性作家の本ばかりあさっていると必ずと言っていいほどサラ・ウォーターズをおすすめされるので、長年気になる存在だった。読もう読もうと思い続けて早数年…はじめてのサラ・ウォーターズは『荊の城』を読むことにした。

19世紀半ばのロンドン。17歳になる少女スウは、下町で掏摸を生業として暮らしていた。そんな彼女に顔見知りの詐欺師がある計画を持ちかける。とある令嬢をたぶらかして結婚し、その財産をそっくり奪い取ろうというのだ。スウの役割は令嬢の新しい侍女。スウは迷いながらも、話にのることにするのだが…。CWAヒストリカルダガーを受賞した、ウォーターズ待望の第2弾。

 

前半のあらすじ

スーザン(通称スゥ)は泥棒一家で暮らし、育ての母(サクスビー夫人)に特に大切にされて暮らしている。生みの母親は窃盗を犯し、絞首刑となったと聞かされて育った。ある日、紳士(リチャード)がやってきて、ブライア城に住む娘モードの財産を奪う計画を打ち明ける。それは、スゥを侍女として城に住まわせ、モードの信頼を得たのち、リチャードとの結婚を取り持たせるといういうものだった。モードと結婚してしまえば、財産だけを奪って、彼女を精神病院に入れてしまう魂胆だ。

無事侍女として採用され、モードの傍で暮らし始めるスゥ。モードは厳格な伯父の所有するブライア城で暮らす静かな少女だった。しかし、スゥは貶める相手であるはずのモードに惹かれ、2人は段々と仲良くなっていくのだった。リチャードは度々城に訪れ、モードへ好意を寄せるが、モードはなかなか靡かなかった。スゥはモードへの好意を押し殺して、紆余曲折の末、モードとリチャードを極秘結婚させることに成功する。そして、モードを精神病院に閉じこめるため、スゥとモード、リチャードの3人は病院へ向かうのだが…。

 

感想

ゴシック犯罪小説と言われてるのはちょっと物騒すぎない?という感じがするけれど、ディケンズ風といったほうがわかりやすいかもしれない。個人的には、お屋敷小説、メイド小説としての色も強くて、イギリス作品好きには胸に刺さるポイントが多すぎる。さらにウォーターズは作品に必ずレズビアンを登場させていて、本作も百合小説としても人気。終始薄暗い雰囲気が纏うものの、決してどんよりしたものではなく、ちょっぴり妖艶で、人間味に溢れる感じがドラマチックな展開とも相まっている。前半をあらすじをざっくり書いたけれど、ここまではまだ序の口で、後半にどんでん返しが待っているので後半にはあまり触れないでおこう…。

それはそうと、2016年には本作を原作とした韓国映画『お嬢さん』が公開されて、一時期話題になったことを思い出した(当時、ミニシアターなどで活動していて、大小いろんな映画館に通っていたのでよくポスターを見た記憶がある)。私は原作を絶対先に読みたい派なので、当時映画を見ることはなかったのだが、今回本を読み終わってすぐ『お嬢さん』を視聴。…韓国映画ヴァージンをトンデモナイ作品に奪われてしまい瀕死!もちろん、本でスゥとモードの関係や距離感にドキドキするものの、映像で目から摂取してしまうと、その生々しさと初々しさを怖いぐらいに感じて、シンプルに「ああ、すごいものを見た」と思ってしまう。

ゴシック犯罪小説だなんて堅苦しい言葉を飾っているものの、このロマンチックでミステリアスで切なくてゴシック風味もあってディケンズのような伝統のイギリス文学感もあって、プロットもキレッキレで…なかなか一言では表せない要素が多すぎる。イギリス文学を読んでみたいけど、ちょっとハードルが…と思ってる人に無理やり押し付けたい。

 

(本を読みながらプロットメモを残したので、気が向いたらネタバレ用の後半のあらすじを載せるかもしれません)

 

『インドへの道』E・M・フォースター / "A Passage to India" by E.M. Foster (1924)

""サルサでもフラメンコでもない。 ナートゥをご存じか? ""

導入から別作品の話となるが、2023年3月のアカデミー賞において、劇中シークエンス『ナートゥ・ナートゥ』が歌曲賞を受賞したことで再び注目を集め、日本でもロングラン上映中(2022年10月~)のインドのアクション映画『RRR アールアールアール』。

舞台は1920年、英国植民地時代のインド
英国軍にさらわれた幼い少女を救うため、立ち上がるビーム(NTR Jr.)。
大義のため英国政府の警察となるラーマ(ラーム・チャラン)。
熱い思いを胸に秘めた男たちが”運命”に導かれて出会い、唯一無二の親友となる。
しかし、ある事件をきっかけに、それぞれの”宿命”に切り裂かれる2人はやがて究極の選択を迫られることに。

彼らが選ぶのは 友情か?使命か?

rrr-movie.jp

ざっくりしたあらすじ。イギリス統治下のインド帝国。ある村で芸術の才能を持つ少女マッリがイギリス人に買い上げられ、強制的に連れ去られた。村の守護者ビームはマッリの奪還のために、仲間と共に首都デリーのイギリス総督府を目指す。

一方デリーでは、警察官ラーマがある決意を元に、特別捜査官へ昇進するため日々精進していた。反英勢力の反乱を、ラーマは圧倒的な力をもって一人で制圧したにも関わらず、昇進するのはラーマではなくイギリス人ばかりで煮え切らない。イギリス総督府はマッリ誘拐を恨んだ村の守護者がデリーに向かっていることを聞きつけ、警官たちに守護者を生け捕りにすれば、特別捜査官へ昇進させると約束する。ラーマはこれをチャンスとし、名前も顔もわからない村の守護者探しを始める。

デリーについたビームはアクタルと名乗り、素性を隠して、総督府突破のタイミングを図っている。偶然、事故に巻き込まれた子供を救う際に意気投合したラーマとビームは親友となってゆく。イギリス人女性に恋をしたり、総督府のパーティーに参加してナートゥを披露したり、ラーマのサポートを受けたビームは、ラーマを「兄貴」と慕うのだった。しかしながら、ラーマの捜査が進むにつれ、ビームの計画も実行に移されようとし始め、ビームはラーマに素性を打ち明けるのだが…。

 

なんとまだ3分の1くらい。この映画は起承転転転転転結という感じだ。

(※ナートゥは以下動画で存じ上げてください)


www.youtube.com

 

『RRR』のお話はさておいて、とある本をきっかけに、ナートゥを存じ上げるに至った。それが掲題のE・M・フォースターの『インドへの道』である。ちょうどアカデミー賞関連のニュースが報道されていた頃に、本書を読んでいたため、テレビで劇中歌のシーンを見て何かと通ずるものを感じ、勢いで週末の鑑賞チケットを購入した。本書の舞台は『RRR』と同じくして、1920年代のイギリス統治下のインド帝国。どちらの作品も"友情"が主題の一部である。

正直なところ、歴史的知識が乏しく、本書の内容を十分に理解するのが困難だったため、視覚的に同年代のインドの雰囲気を味わいたかった。インドが舞台の小説を読むのも、インド映画を見るのも初めてだったため、この2つを同時期に摂取できるのは単なる偶然にしてもタイミングが良すぎる、ということで苦手な映画館に足を運んだ。そんなこんなで、本書の感想を書き残す気力も生まれたので結果オーライだ。

あらすじ <前半>

大英帝国統治下のインドの地方都市を舞台に、多様な登場人物の理解と無理解を緻密に描き、人種や宗教、東洋と西洋、支配と非支配といった文化的対立を、壮大なスケールで示した不朽の名作。

インドへの道 :E・M・フォースター,小野寺 健|河出書房新社

舞台はインドの架空の町チャンドラポア。主人公のインド人医師アジズはイスラム寺院でイギリス人女性・ムア夫人と知り合う。夫人は若いイギリス人女性アデラと共にインドに滞在しており、アデラはムア夫人の息子である在インドの治安判事ロニーの結婚相手候補としてインドを訪れていた。ムア夫人とアデラは、観光客のような形でインドに滞在しており、インドへの飽くなき興味と、友好的な感情を示す。

アジズは比較的温厚な人物であり、イギリス人に対して不満を抱きながらも、彼らとうまく共存してきた。多くのイギリス人がインド人を見下す中、イギリス人教師のフィールディングは、人種に関わらず、対等に接し、徐々にアジズとの友好関係を深めていく。

本当のインドを見たい、というアデラの言葉に触発され、アジズは「マラバー洞窟」への観光を提案する。インド人嫌悪が顕著なロニーの反対を受けながらも、アジズとフィールディング、哲学者のゴドボレ、ムア夫人、アデラとガイド・従者を引き連れて、マーラバーへと向かうことになる。運悪く、フィールディングとゴドボレはマラバー行きの電車に乗り遅れてしまう。その上、ロニーからアデラの監視役として命じられ同行していた従者も帰らせてしまった。友人フィールディングの不在に一抹の不安を覚えるアジズであるが、アデラや夫人を失望させないためにもそのまま洞窟へと向かう。

洞窟観光を進める中、疲労を訴えて、一行から離脱する夫人。アジズは渋々アデラとガイドの3人でさらに先へ進む中、アデラと会話に気まずさを覚える。アジズはアデラから少し距離を置いてしまい、洞窟の中で彼女を見失ってしまった。結局のところ、アデラは偶然通りかかったミス・デレクの乗る車に乗って帰ってしまったという。そしてチャンドラポアへと戻るアジズを待ち受けていたのは”逮捕状”だった。

 

登場人物

<インド人>

アジズ:インド人医師

ゴドボレ:フィールディングの学校の教師。ヒンドゥー教

マームードアリ:弁護士。アジズの友達。

ハミドゥラ:弁護士。アジズの親戚。

パンナ・ラルヒンドゥー教の下級医師。アジズのライバル。

 

<イギリス人>

シリル・フィールディング官立大学の校長。

ムア・ヒースロップ:ロニーの母。

アデラ・クウェステッド:ロニーの結婚相手候補。ムア夫人とインド滞在中。

ロニー・ヒースロップ:在インド治安判事。ムア夫人の息子。

ミス・デレク:インドの裕福な家庭で働いている若い女性。

タートン:地方長官。ヒースロップの上司。

マクブライド:警察部長。

カレンダー:アジズの努める病院の院長。

 

あらすじ <後半> ※ネタバレ有

アジズに届いた逮捕状は、洞窟の中でアジズがアデラに暴行を与えようとした、という内容だった。冤罪にも関わらず逮捕されたアジズだったが、イギリス>インドという力関係が明確な状況下では、アデラの証言以外の証拠がないにも関わらず、イギリス人の誰もがアデラの味方をするのだった。そんな中、友人フィールディングは、アジズの無罪を必死に訴える。しかし、洞窟への観光へは、フィールディングやゴドボレが不在で、ロニーが雇った従者も途中で離脱していたことから、アジズはさらに不利な状況になる。

事情聴取を受けるアデラだったが、洞窟にいたときの記憶は錯乱しており、明確な状況を思い出すことがてきなかった。当時の彼女はロニーとの婚約について深く悩んでおり、洞窟の特徴も何も覚えていないが、洞窟の中で"こだま"が響いていたと主張するのだった。洞窟の中での出来事を知っているのは、アデラとアジズ、そしてガイドのみ…アジズのことを信頼していて、証人候補だったムア夫人はタイミング悪く、インドを離れ、イギリスへの帰路についているという。そんな不利な状況の中でアジズの裁判が行われることになる。

裁判の証言で、アデラが自身の錯乱が招いた思い違いであったことを正直に述べて告訴を取り下げたため、アジズは釈放された。また、ロニーはアデラが裁判で不利にならないように、意図的にムア夫人をイギリスに帰らせたのだが、不運にも夫人は航海中に命を落としてしまった。アデラはこのアジズとの一件が元で、イギリス人からもインド人からも信頼を失ってしまい、ロニーとの婚約も解消した。そんな孤立したアデラを支えるのもまたフィールディングだった。アジズは自身の人生を崩壊させかけたアデラを庇うフィールディングに嫌気が差し、アジズはアデラとフィールディングが男女の仲にあるのだと思い始める。結果として二人の友情に卑劣が入ってしまった。そして、アデラがイギリスへ戻り、フィールディングも自身の都合でイギリスに帰ったのであった。

そして、フィールディングから手紙が届き、彼が結婚したのだと知るアジズは、アデラと結婚したに違いない、とさらに嫌悪感を強める。再び届いた手紙では、フィールディングが家族を連れインドを訪れる、と書かれていた。手紙を破り捨てるアジズだったが、フィールディングとマウの地で再会することになる…。

感想

イギリス人とインド人は友情を結べるのか

本作の主題の一つである「イギリス人とインド人は友情を結べるのか」。

物語の序盤、マームード・アリとハミドゥラの会話の引用である。

二人は、イギリス人と友達になるのは可能か問題を論じていたのだった。マームード・アリは無理だと言う。ハミドゥラはこれに反論するのだが、この反論にはたくさんの留保がつくので喧嘩にはならなかった。(p.13)

「ぼくはただ、イギリスでなら可能だと言っているのさ」遠い昔にその国へ行ったことのあるハミドゥラは答えた。猫も杓子もイギリスに押しかけるようになる前のことだったから、彼はケンブリッジでも大事にされたのである。(p.13)

「そうなんだ。イギリス人はインドじゃ身動きがとれない、そこなんだ。国を出てくるときは紳士に徹するつもりでいても、それではだめだと言われてしまう。(中略)「ちがうね。あいつらはみんなそっくりになっちゃうのさ。どっちがましなんてことはない。イギリス人の男なら二年で、(中略)女なら半年だな。みんなそっくりになっちまう。 (p.14)

作中でインド人を蔑む地方長官タートンは、インドに赴任した当初は、馬車に同乗させてくてたり、切手コレクションを見せてくれたり、友好的な人物であったと示される。そして、次は、フィールディングがインド人の敵になる番だと主張する。

そんなフィールディングは最終的にどういう人間になったのか。以下は最終段落からの引用だ。久々に再会したアジズとフィールディングが本音で政治議論を始めるシーンである。

(略)「とにかく、イギリス人はくたばっちまえ。それだけはまちがいない。出ていくんだ、きさまらは。さっさとな。われわれインド人同士だって恨み合っているかもしれないが、いちばん恨んでいるのはあんたたちなんだ。おれが追っ払えなければアーメッドが、カリムがやるだろう。五十年かかろうと五百年かかろうと、あんたたちは追い出す。汚らわしいイギリス人などは、一人のこらず海へ追い落としてやる。そのとき」――彼は猛烈な勢いでフィールディングに馬を寄せると――「そのとき」と言って、キスでもするような格好になると「そのときこそ、君とぼくは友達になれる」と言い切った。

「どうして、今はなれないんだ」相手は彼をやさしく抱きかかえて言った。「ぼくはそうなりたいのだ。君だってなりたがってるんだ」

 だが、彼らの馬はそれを望んではいなかった――二頭の馬はふらりと離れた。台地も望んではいなくて地表に岩をつきだしたので、彼らは一列で進まざるをえなかった。彼らが岩の隙間から抜け出して眼下にマウを一望できるところまで来ると、神殿が、貯水池が、刑務所が、宮殿が、鳥が、腐った肉が、迎賓館が見えた。こういうものもそれを望んではいず、それぞれが「だめだ、まだだめだ」と声をあげ、空も「だめだ、まだだめだ」と言った。(p.504-505)

このデリケートな問題に対する例えとしてふさわしくないかもしれないが、まるで『ロミオとジュリエット』―いくら当の本人が愛し合っても、敵対する一族同志の結婚は到底許されない―のようだ。アジズもフィールディングも人種の壁を越えて、支配・被支配の壁を越えて、友情を関係を結びたい。しかし、友人のように振舞っても、不可抗力はそれを友情と呼ばせてはくれない。人が育み、肥大させてきた文明は、貯水池や刑務所、腐った肉にさえ、「まだ」の一言で次の一歩を遮られた。

イギリス人フィールディングの言葉「ぼくはそうなりたいのだ。君だってなりたがってるんだ (=だから、友達なれるんだ)」は、支配者側(イギリス)の言葉であって、被支配者(インド)からすれば、偏に友情を華々しく宣言できず、ましてそれを真の友情とは呼べない。

しかし、「だめだ、まだだめだ」「まだ」からわかるように、否定しているものの、「まだ」であって、「いつか」の未来で肯定されるのである。しかし、それは1920年代では「まだ」早すぎた。あとがきでも触れられていたが、フィールディングはフォースターの分身である可能性が指摘されている。それがフォースターの答えだろう。

 

対立する世界

様々な二項対立が見え隠れする本作。イギリスとインドという統治下の背景、西洋と東洋の文化の対立、インドにおける2大宗教イスラムヒンドゥーの対立が存在する。

宗教が多様なインドであるが、ヒンドゥー教徒が8割なのに対して、イスラム教徒は1割程度である。イスラム教徒である、アジズは宗教面において少数派に属している。しかしながら、医者=インテリとしてインドの中においては上層の人間=支配者として、生活をしている。同じく医者のパンナ・ラルはヒンドゥー教の下級医師である。しかし、イギリスが介入してしまえば結局、アジズは被支配者なのである。

イギリス人の院長が経営する病院に勤めるインド人のアジズ。インド人から圧倒的な信頼を得る代わりに、在インドのイギリス人からは爪弾きにされるフィールディング。アジズと親交のあるハミドゥラとマームード・アリでさえ親イギリスと反イギリスと、正反対の意見を持っている。対立の中に対立が生まれ、複雑な層を成す状況が浮き彫りになる。そのような政治的な混沌から生まれた個々人の心理的な葛藤が、顕著に表れている。

最後に

BBCイギリス文学100選のうちの1冊として本書を手に取ることになった。このリーディングチャレンジをしていなければ確実に読むことはなかったであろう作品なので、いい機会だと思い、読み始めた。正直なところ、読み進めるのが難しい場面が多々あり、感覚的には理解できたのは4割ほどと苦戦した。3章が難解すぎる…。特に宗教的な議論においては、無宗教が一般的な日本人の感覚では当然理解するのが難しい…。もちろん、インドの文化的な背景への理解も必須だ。

そこで、冒頭で触れた『RRR』を鑑賞するに至った。

『インドへの道』におけるフィールディングの役割は、『RRR』であればイギリス人女性のジェニーだろう。作中で唯一、インド人に対して偏見なく、友人としてビームに手を差し伸べている。『RRR』ではもちろん、ラーマとビームの友情関係が中心なのだが、上で述べた「イギリス人とインド人は友情を結べるのか」という問いは『RRR』でも同様に見ることができた。

もちろん、『RRR』はインド人目線、『インドへの道』はイギリス人目線で描かれており、2作品が全く毛色の違う作品であることは置いておいて、いろんな視点からイギリス統治下のインドについて描かれているかを知るいい機会だった。フォースターを読んで、インドのアクションミュージカル映画に行きつくのは突飛かと思うが、個人的にはなかなかおもしろかったので、どちらかしか体験していないという人がいれば、是非試してみてほしい…!!!

 

また、文学ではないが、観光地としてのインドの歴史や文明に優美な文章で浸りたいかたには中谷美紀様のインド旅行記(全4巻)がおすすめ。

 

『ワシントン・スクエア』ヘンリー・ジェイムズ / "Washington Square" by Henry James (1880)

おせっかいおばさんが活きる作品が好きだ。おばさんの押しの強さはいつの時代も不滅だ。

かつて結婚だけが女性の幸せだとされてきた時代は長く、結婚適齢期を迎えた男女を結び付けようと躍起になるおばさんは、この時代の作品には多く登場する。だいたい自分の姪御や従妹などの付添人として社交界に繰り出し、良い男性との仲を取り持つことが生きがいだ。もしかわいい姪がつまらない男に現を抜かしているなら、どうにか説得して諦めさせないといけない。何十年も前に結婚も経験して、女性としての酸いも甘いも経験してきたおばさんは、ひと時の感情で人生を棒に振るべきではないと必死に訴えるのだ。我こそはと恋のキューピッドになりたがるものの、空回りしがちなところが多く、ある意味滑稽で、コミカルな人物として描かれることが多い。この手のおばさんが登場すると「おもしろくなるな」と思ってしまう。

例えば、オースティンの『説得』では、主人公アンの母親がわりであるラッセル夫人、フォースターの『眺めのいい部屋』では、主人公ルーシーに付き添う年の離れた従姉のシャーロット、など。結婚小説としても有名なオースティンの『高慢と偏見』では、主人公の母親のベネット夫人が、娘たちの結婚に躍起になりすぎて、逆に恋愛の邪魔をしてしまう様子も描かれているのが有名だ。

さて、前置きが長くなりすぎたが、今回読んだのはアメリカ生まれのイギリスの作家ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』。この記事の執筆時点では、すでに取り扱いが終了しており、新品で購入するのが難しい作品のようだ。運よく、中古であるが読み跡もない、新品同然の綺麗な版を見つけ即購入し、念願かなって読むことができた。

 

 

あらすじ①

「父には,弱いといえるところが一つもないんですの」完璧な父を敬愛する,内向的で平凡な容姿のキャサリン.彼女の前に現れた,美貌で言葉たくみな求婚者――19世紀半ばのニューヨークを舞台に,鋭く繊細な会話と描写が,人間心理の交錯と陰影を映し出す.『ある婦人の肖像』とならぶ,ジェイムズ(1843-1916)初期の佳作.

ワシントン・スクエア - 岩波書店

スローパー氏は、社会的に評価される医師であり、加えて人望も厚い人物で、街一番の美人で器量のいい令嬢キャサリンと結婚した。長男は夫妻に似て、美しく才能に恵まれた子供であったが幼くして亡くなってしまう。次いで生まれたのが主人公のキャサリン(母親と同名)である。産後の肥立ちが悪く、母キャサリンは亡くなってしまう。スローパー氏は男児を望んでいたが、スローパー氏の手元に残ったのは、夫人の忘れ形見である子女キャサリンとなった。しかしながら、この娘は特段賢くもなく、美人なわけでもなく、まさに中の中というような少女で、父親であるスローパー氏から見ても、両親の良い性質を全く受け継いでいなかった。健康ぐらいしか取り柄がなく、他人の目を通しても「ぼんやりした不器量な娘」あるいは「物静かな娘」であった。

そんな何の取柄もない娘が結婚適齢期を迎えた頃、ある男性との出会いをきっかけに物語は動き出す…。

家系図

小説を読むときは、必ず家系図を書くようにしているので、今回も物語序盤で判明している情報で簡単な家系図を作成してみた。もちろん、ネタバレ情報はないのでご安心を。アーモンド家には子供があと8人ぐらいいたりするのだが、本筋に関係のない人物数名は省略した。この物語は比較的少人数で展開するので、この後に登場する重要人物1名とその家族を加えれば、上記の家系図内で完結する。(灰色字の人物は物語開始時点で死去している人物)

序盤でおばさんについて述べたので、ぜひ家系図でチェックしてもらいたいのだが、母親がいないキャサリンにとっての結婚斡旋おばさんは、父親の妹にあたる「ぺニマン夫人」か「アーモンド夫人」の2択である。ぺニマン夫人は貧しい牧師である夫に先立たれ、子供がいないのに対して、アーモンド夫人は裕福な商人の男性と結婚し、9人の子供に恵まれた女性で、結婚を通して全く異なる暮らしを得た2人である。

あらすじ②

生まれてすぐ母親を亡くしたキャサリンだが、父親の手だけで育てられたわけではない。スローパー氏は、キャサリンに女性の援助が必要だと考え、未亡人となり貧しい暮らしをしていた妹のぺニマン夫人を一時的に屋敷に呼び寄せた。結局のところ、夫人はキャサリンの母親代わりとして、屋敷に住み続けている。このぺニマン夫人は、上流風や華やかさを好む女性だったが、秘密を持つことを好んだり、自身の想像の世界に感けて、いささか滑稽で薄っぺらい言動が目立つ。キャサリンは偉大な父親をひたすらに尊敬していたが、ぺニマン夫人に対しては、好意をもっていたものの、「一目で全体が見渡せる景気」程度の人物としか捉えていなかった。

ある時、従妹のマリアンが結婚することになり、結婚披露パーティーに招かれるキャサリン。そこで、アーサーの遠縁にあたるハンサムな男性モリス・タウンゼント氏に出会い、巧みな話術も相まって、絵の中から出てきたかのように美しく繊細な彼に夢中になる。好意を抱いているのはキャサリンだけではなく、モリスも同じようにキャサリンに好意を抱いているようで、早速スローパー家とモリスとの交流が始まるのだった。

キャサリンとぺニマン夫人から話を聞いたスローパー氏も、モリスに興味を持つ。スローパー氏の目を通したモリスに対する所感は「大変な口巧者で申し分ない外見をしているが、伊達男」といったもので、ビジネスの相手としては歓迎できるが、娘の結婚相手としては論外であった。その上、どうやらモリスは求職中の身で、貧しい生活を送っていることがわかり、キャサリンに接近したのは彼女の財産目当てではないのかとスローパー氏は疑い始める。(キャサリンには毎年母親の遺産が入り、死後には父親の財産も受け継ぐことになっているので、それなりの収入が見込めた。)

登場人物

オースティン・スローパー:医師。上流社会でも名の通った人望に熱い人物。

キャサリン・スローパー:スローパー医師の一人娘。シンプルに平凡な娘。

ラヴィニア・ぺニマン:スローパー医師の妹で、未亡人。母親を亡くしたキャサリンの母親代わりとして同居している。

エリザベス・アーモンド:スローパー医師のもう一人の妹。9人の子宝に恵まれた夫人。

マリアン・アーモンド:キャサリンの従妹。アーサーと結婚する。

アーサー・タウンゼント:マリアンの婚約者。名の知れたタウンゼント家の出。

モリス・タウンゼント:アーサーの遠縁にあたるハンサムな男性。どうやら職もお金もないらしいが…?

感想

出版社の概要にある”内向的で平凡な容姿のキャサリン.彼女の前に現れた,美貌で言葉たくみな求婚者”、この一文だけで、「これはやばい、その男、絶対裏がある!」と大抵の読者なら思うだろう。中の中の平凡な娘に誰もが美形と称する男性が、見え透いた好意を持って近づいてくる…。どう考えても一悶着ありそうな、ありがちなプロットをどう決着させるのか?それがこの本を読む中で、一番気になるところだ。結婚できるの?結婚できないの?もしかしたら成就しない恋を嘆いて死を選ぶ?

モリスが金当てだと決定づけ二人の結婚を妨げようとするスローパー氏、敬愛する父の反対を重く受け止め揺れるキャサリン、恋のキューピッドよろしくモリスとキャサリンの間でおせっかいを繰り広げるぺニマン夫人、スローパー氏の反対を受けながらも結婚を強行しようとするモリス。

淡々と中盤まで進む物語は、徐々に登場人物たちの心理描写へシフトしてゆく。父親には逆らえないキャサリンが、どうやって自分で決断を下すのかを、半ば実験でもするかのように見守るスローパー氏は、堅実で人望に厚い人物とは思えないほど、娘には辛辣に当たる。「こんな平凡な娘にハンサムな男が一目ぼれするわけないやろw」的な立場で、キャサリンはなかなか哀れなヒロインである。

一方、ぺニマン夫人はスローパー氏の意見に反対で、何があっても結婚を推し進めたい派。ちなみにもう一人の妹アーモンド夫人は、スローパ―氏と同じ結婚懐疑派である。

ぺニマン夫人は、キャサリンに内緒でモリスと密会し、結婚を上手く進めようと計画を練ったり、伝言を預かってみたり、秘密を享受できる立場に酔いしれてしまう。もちろんモリスも「このおばさん、めんどいなw」と内心呆れている。

冒頭で述べた本書のおばさんはまさにぺニマン夫人だ。当事者のモリスとキャサリン以上に一人できゃっきゃと喜んでいる様はコミカルだが、空気が読めてなさすぎて少々イタい。このおばさんがいなかったら、結末が変わっていたのではないかと思うほどに奮闘する姿は、この静かな心理戦を繰り広げる作品でひと際目立っている。別に、おせっかいおばさんを批判するつもりはないが、この類の結婚を取り扱う物語に登場するおばさんは妙にリアルである。海外の作品を読むとき、土地も文化も時代も違えば、感情の理解に半ば苦しむこともあるのだが、おばさんの言動だけは時代や国を超えても不動で、アットホーム感さえある。ということで、結婚斡旋おばさんが登場する文学は総じて好きになってしまう。

忘備録として、いろんな文献を探していた時に見つけた記事をシェア。

Can She Be Loved? On “Washington Square” | The New Yorker

この記事によると、ジェイムズが女優のファニー・ケンブルから聞いた話が、このストーリーのプロットになっているとのこと。 

Mrs. Kemble told me last evening the history of her brother H.’ s engagement to Miss T. H.K. was a young ensign in a marching regiment, very handsome (“beautiful”) said Mrs K., but very luxurious and selfish, and without a penny to his name. Miss T. was a dull, plain, common-place girl, only daughter of the Master of King’s Coll., Cambridge, who had a handsome private fortune (£ 4000 a year). She was very much in love with H.K., and was of that slow, sober, dutiful nature that an impression once made upon her, was made for ever. Her father disapproved strongly (and justly) of the engagement and informed her that if she married young K. he would not leave her a penny of his money. It was only in her money that H. was interested; he wanted a rich wife who would enable him to live at his ease and pursue his pleasures. Miss T. was in much tribulation and she asked Mrs K. what she would advise her to do— Henry K. having taken the ground that if she would hold on and marry him the old Doctor would after a while relent and they should get the money. (It was in this belief that he was holding on to her.) Mrs K. advised the young girl by no means to marry her brother. (“If your father does relent and you are well off, he will make you a kindly enough husband, so long as all goes well. But if he should not, and you were to be poor, your lot would be miserable. Then my brother would be a very uncomfortable companion— then he would visit upon you his disappointment and discontent.” )

 

最後に

あまりネタバレはしたくないので、結末には触れないが、思っていた結末とは違っていた。もちろん凡人の私が思い描くような結末を書いてたら作家として名を馳せていないだろうから、それは当たり前なのだが、なんとも静かな一文で幕を閉じた。

Catherine, meanwhile, in the parlour, picking up her morsel of fancywork, had seated herself with it again--for life, as it were.

二人の結婚をめぐっては主にキャサリン・モリス・スローパー氏の心理的なぶつかり合いで決着を迎えるのだが、結局のところがこの3者が"本当はどう思っていたのか・どうしたかったのか"は明確には描かれなかった。読者に対して委ねるようなじれったい決着が余韻を残してる。ハッピーエンドかバッドエンドで物語を判断するのは浅はかかもしれないが、この物語をどう捉えたらいいだろうか?

 

ジェイムズの作品は『デイジー・ミラー』『ロデリック・ハドソン』と読んできたが、間違いなく本作が一番お気に入りの作品となった。この2作に比べて、シンプルな筋書きで、無駄な描写がなく、淡々と話が進むのでかなり読みやすい。入手は困難だが、350ページほどの作品なので、ジェイムズの入門書としては最適かと思う。

 

余談であるが、この本を読みたいと思ったのはジャケ買い的な要素もあった。本書のあとがきでも触れられているが、フレデリックハッサムの「ワシントン・スクエアの5番街」という絵画である。『ワシントン・スクエア』の刊行が1880年であったことから、小説が書かれたのとほぼ同時代のワシントン・スクエアを描き出した絵画だろう。昼間の木漏れ日と日傘をさす女性、背後に映る活気のある街角がなんとも美しく好きな作品だ。

Frederick Childe Hassam, Fifth Avenue at Washington Square, New York, 1891

 

 

 

『月と六ペンス』サマセット・モーム / "The Moon and Sixpence" by William Somerset Maugham (1919)

今年の夏に読んだ1冊。読み返すことはないだろうけど、静かに本棚に置いておきたい。

I have an idea that some men are born out of their due place. Accident has cast them amid certain surroundings, but they have always a nostalgia for a home they know not. They are strangers in their birthplace, and the leafy lanes they have known from childhood or the populous streets in which they have played, remain but a place of passage. They may spend their whole lives aliens among their kindred and remain aloof among the only scenes they have ever known. Perhaps it is this sense of strangeness that sends men far and wide in the search for something permanent, to which they may attach themselves. Perhaps some deeprooted atavism urges the wanderer back to lands which his ancestors left in the dim beginnings of history. Sometimes a man hits upon a place to which he mysteriously feels that he belongs. Here is the home he sought, and he will settle amid scenes that he has never seen before, among men he has never known, as though they were familiar to him from his birth. Here at last he finds rest.

本筋に触れていなくて申し訳ないが、シンプルにストリックランドが羨ましい。私にも私のdue placeがあると思っている。

私は日本に生まれついたけれど、ずっと夢中になっている遠い海外の国がある。まだ行ったことはない。いつかは行きたいけれど、いつかはわからないし、決めてもいない。でも、そこが自分に似合う場所で、そこでこそ自分らしい生活ができると信じている。

私がストリックランドのようにそこは飛び立たないのはまだ日常の中に未練がありすぎるからで、未熟にも全てを捨てていく勇気はまだ身につけていない。ストリックランドのようになれたら幸せだと思う。しかしながら、それは簡単にできることじゃないからこそ、ストリックランドの人生は読み応えがある。私にとっては、ストリックランドは”””すべてを手にした男”””すぎて本当にうらやましい!

憧れは憧れのままのほうが綺麗で崩れることはないし、むしろ足を運ばずに理想の場所のままでそっと胸に秘めておきたい気もする。結局のところ、私はストリックランドみたいにはならずに死んでいくと思う。静かに本棚においておきたいと切に思うのは、そういう自分の憧れが描かれているからかもしれない。