読んだ本をすぐ忘れないために書くブログ

本当にすぐ忘れます、なんでだろう

『インドへの道』E・M・フォースター / "A Passage to India" by E.M. Foster (1924)

""サルサでもフラメンコでもない。 ナートゥをご存じか? ""

導入から別作品の話となるが、2023年3月のアカデミー賞において、劇中シークエンス『ナートゥ・ナートゥ』が歌曲賞を受賞したことで再び注目を集め、日本でもロングラン上映中(2022年10月~)のインドのアクション映画『RRR アールアールアール』。

舞台は1920年、英国植民地時代のインド
英国軍にさらわれた幼い少女を救うため、立ち上がるビーム(NTR Jr.)。
大義のため英国政府の警察となるラーマ(ラーム・チャラン)。
熱い思いを胸に秘めた男たちが”運命”に導かれて出会い、唯一無二の親友となる。
しかし、ある事件をきっかけに、それぞれの”宿命”に切り裂かれる2人はやがて究極の選択を迫られることに。

彼らが選ぶのは 友情か?使命か?

rrr-movie.jp

ざっくりしたあらすじ。イギリス統治下のインド帝国。ある村で芸術の才能を持つ少女マッリがイギリス人に買い上げられ、強制的に連れ去られた。村の守護者ビームはマッリの奪還のために、仲間と共に首都デリーのイギリス総督府を目指す。

一方デリーでは、警察官ラーマがある決意を元に、特別捜査官へ昇進するため日々精進していた。反英勢力の反乱を、ラーマは圧倒的な力をもって一人で制圧したにも関わらず、昇進するのはラーマではなくイギリス人ばかりで煮え切らない。イギリス総督府はマッリ誘拐を恨んだ村の守護者がデリーに向かっていることを聞きつけ、警官たちに守護者を生け捕りにすれば、特別捜査官へ昇進させると約束する。ラーマはこれをチャンスとし、名前も顔もわからない村の守護者探しを始める。

デリーについたビームはアクタルと名乗り、素性を隠して、総督府突破のタイミングを図っている。偶然、事故に巻き込まれた子供を救う際に意気投合したラーマとビームは親友となってゆく。イギリス人女性に恋をしたり、総督府のパーティーに参加してナートゥを披露したり、ラーマのサポートを受けたビームは、ラーマを「兄貴」と慕うのだった。しかしながら、ラーマの捜査が進むにつれ、ビームの計画も実行に移されようとし始め、ビームはラーマに素性を打ち明けるのだが…。

 

なんとまだ3分の1くらい。この映画は起承転転転転転結という感じだ。

(※ナートゥは以下動画で存じ上げてください)


www.youtube.com

 

『RRR』のお話はさておいて、とある本をきっかけに、ナートゥを存じ上げるに至った。それが掲題のE・M・フォースターの『インドへの道』である。ちょうどアカデミー賞関連のニュースが報道されていた頃に、本書を読んでいたため、テレビで劇中歌のシーンを見て何かと通ずるものを感じ、勢いで週末の鑑賞チケットを購入した。本書の舞台は『RRR』と同じくして、1920年代のイギリス統治下のインド帝国。どちらの作品も"友情"が主題の一部である。

正直なところ、歴史的知識が乏しく、本書の内容を十分に理解するのが困難だったため、視覚的に同年代のインドの雰囲気を味わいたかった。インドが舞台の小説を読むのも、インド映画を見るのも初めてだったため、この2つを同時期に摂取できるのは単なる偶然にしてもタイミングが良すぎる、ということで苦手な映画館に足を運んだ。そんなこんなで、本書の感想を書き残す気力も生まれたので結果オーライだ。

あらすじ <前半>

大英帝国統治下のインドの地方都市を舞台に、多様な登場人物の理解と無理解を緻密に描き、人種や宗教、東洋と西洋、支配と非支配といった文化的対立を、壮大なスケールで示した不朽の名作。

インドへの道 :E・M・フォースター,小野寺 健|河出書房新社

舞台はインドの架空の町チャンドラポア。主人公のインド人医師アジズはイスラム寺院でイギリス人女性・ムア夫人と知り合う。夫人は若いイギリス人女性アデラと共にインドに滞在しており、アデラはムア夫人の息子である在インドの治安判事ロニーの結婚相手候補としてインドを訪れていた。ムア夫人とアデラは、観光客のような形でインドに滞在しており、インドへの飽くなき興味と、友好的な感情を示す。

アジズは比較的温厚な人物であり、イギリス人に対して不満を抱きながらも、彼らとうまく共存してきた。多くのイギリス人がインド人を見下す中、イギリス人教師のフィールディングは、人種に関わらず、対等に接し、徐々にアジズとの友好関係を深めていく。

本当のインドを見たい、というアデラの言葉に触発され、アジズは「マラバー洞窟」への観光を提案する。インド人嫌悪が顕著なロニーの反対を受けながらも、アジズとフィールディング、哲学者のゴドボレ、ムア夫人、アデラとガイド・従者を引き連れて、マーラバーへと向かうことになる。運悪く、フィールディングとゴドボレはマラバー行きの電車に乗り遅れてしまう。その上、ロニーからアデラの監視役として命じられ同行していた従者も帰らせてしまった。友人フィールディングの不在に一抹の不安を覚えるアジズであるが、アデラや夫人を失望させないためにもそのまま洞窟へと向かう。

洞窟観光を進める中、疲労を訴えて、一行から離脱する夫人。アジズは渋々アデラとガイドの3人でさらに先へ進む中、アデラと会話に気まずさを覚える。アジズはアデラから少し距離を置いてしまい、洞窟の中で彼女を見失ってしまった。結局のところ、アデラは偶然通りかかったミス・デレクの乗る車に乗って帰ってしまったという。そしてチャンドラポアへと戻るアジズを待ち受けていたのは”逮捕状”だった。

 

登場人物

<インド人>

アジズ:インド人医師

ゴドボレ:フィールディングの学校の教師。ヒンドゥー教

マームードアリ:弁護士。アジズの友達。

ハミドゥラ:弁護士。アジズの親戚。

パンナ・ラルヒンドゥー教の下級医師。アジズのライバル。

 

<イギリス人>

シリル・フィールディング官立大学の校長。

ムア・ヒースロップ:ロニーの母。

アデラ・クウェステッド:ロニーの結婚相手候補。ムア夫人とインド滞在中。

ロニー・ヒースロップ:在インド治安判事。ムア夫人の息子。

ミス・デレク:インドの裕福な家庭で働いている若い女性。

タートン:地方長官。ヒースロップの上司。

マクブライド:警察部長。

カレンダー:アジズの努める病院の院長。

 

あらすじ <後半> ※ネタバレ有

アジズに届いた逮捕状は、洞窟の中でアジズがアデラに暴行を与えようとした、という内容だった。冤罪にも関わらず逮捕されたアジズだったが、イギリス>インドという力関係が明確な状況下では、アデラの証言以外の証拠がないにも関わらず、イギリス人の誰もがアデラの味方をするのだった。そんな中、友人フィールディングは、アジズの無罪を必死に訴える。しかし、洞窟への観光へは、フィールディングやゴドボレが不在で、ロニーが雇った従者も途中で離脱していたことから、アジズはさらに不利な状況になる。

事情聴取を受けるアデラだったが、洞窟にいたときの記憶は錯乱しており、明確な状況を思い出すことがてきなかった。当時の彼女はロニーとの婚約について深く悩んでおり、洞窟の特徴も何も覚えていないが、洞窟の中で"こだま"が響いていたと主張するのだった。洞窟の中での出来事を知っているのは、アデラとアジズ、そしてガイドのみ…アジズのことを信頼していて、証人候補だったムア夫人はタイミング悪く、インドを離れ、イギリスへの帰路についているという。そんな不利な状況の中でアジズの裁判が行われることになる。

裁判の証言で、アデラが自身の錯乱が招いた思い違いであったことを正直に述べて告訴を取り下げたため、アジズは釈放された。また、ロニーはアデラが裁判で不利にならないように、意図的にムア夫人をイギリスに帰らせたのだが、不運にも夫人は航海中に命を落としてしまった。アデラはこのアジズとの一件が元で、イギリス人からもインド人からも信頼を失ってしまい、ロニーとの婚約も解消した。そんな孤立したアデラを支えるのもまたフィールディングだった。アジズは自身の人生を崩壊させかけたアデラを庇うフィールディングに嫌気が差し、アジズはアデラとフィールディングが男女の仲にあるのだと思い始める。結果として二人の友情に卑劣が入ってしまった。そして、アデラがイギリスへ戻り、フィールディングも自身の都合でイギリスに帰ったのであった。

そして、フィールディングから手紙が届き、彼が結婚したのだと知るアジズは、アデラと結婚したに違いない、とさらに嫌悪感を強める。再び届いた手紙では、フィールディングが家族を連れインドを訪れる、と書かれていた。手紙を破り捨てるアジズだったが、フィールディングとマウの地で再会することになる…。

感想

イギリス人とインド人は友情を結べるのか

本作の主題の一つである「イギリス人とインド人は友情を結べるのか」。

物語の序盤、マームード・アリとハミドゥラの会話の引用である。

二人は、イギリス人と友達になるのは可能か問題を論じていたのだった。マームード・アリは無理だと言う。ハミドゥラはこれに反論するのだが、この反論にはたくさんの留保がつくので喧嘩にはならなかった。(p.13)

「ぼくはただ、イギリスでなら可能だと言っているのさ」遠い昔にその国へ行ったことのあるハミドゥラは答えた。猫も杓子もイギリスに押しかけるようになる前のことだったから、彼はケンブリッジでも大事にされたのである。(p.13)

「そうなんだ。イギリス人はインドじゃ身動きがとれない、そこなんだ。国を出てくるときは紳士に徹するつもりでいても、それではだめだと言われてしまう。(中略)「ちがうね。あいつらはみんなそっくりになっちゃうのさ。どっちがましなんてことはない。イギリス人の男なら二年で、(中略)女なら半年だな。みんなそっくりになっちまう。 (p.14)

作中でインド人を蔑む地方長官タートンは、インドに赴任した当初は、馬車に同乗させてくてたり、切手コレクションを見せてくれたり、友好的な人物であったと示される。そして、次は、フィールディングがインド人の敵になる番だと主張する。

そんなフィールディングは最終的にどういう人間になったのか。以下は最終段落からの引用だ。久々に再会したアジズとフィールディングが本音で政治議論を始めるシーンである。

(略)「とにかく、イギリス人はくたばっちまえ。それだけはまちがいない。出ていくんだ、きさまらは。さっさとな。われわれインド人同士だって恨み合っているかもしれないが、いちばん恨んでいるのはあんたたちなんだ。おれが追っ払えなければアーメッドが、カリムがやるだろう。五十年かかろうと五百年かかろうと、あんたたちは追い出す。汚らわしいイギリス人などは、一人のこらず海へ追い落としてやる。そのとき」――彼は猛烈な勢いでフィールディングに馬を寄せると――「そのとき」と言って、キスでもするような格好になると「そのときこそ、君とぼくは友達になれる」と言い切った。

「どうして、今はなれないんだ」相手は彼をやさしく抱きかかえて言った。「ぼくはそうなりたいのだ。君だってなりたがってるんだ」

 だが、彼らの馬はそれを望んではいなかった――二頭の馬はふらりと離れた。台地も望んではいなくて地表に岩をつきだしたので、彼らは一列で進まざるをえなかった。彼らが岩の隙間から抜け出して眼下にマウを一望できるところまで来ると、神殿が、貯水池が、刑務所が、宮殿が、鳥が、腐った肉が、迎賓館が見えた。こういうものもそれを望んではいず、それぞれが「だめだ、まだだめだ」と声をあげ、空も「だめだ、まだだめだ」と言った。(p.504-505)

このデリケートな問題に対する例えとしてふさわしくないかもしれないが、まるで『ロミオとジュリエット』―いくら当の本人が愛し合っても、敵対する一族同志の結婚は到底許されない―のようだ。アジズもフィールディングも人種の壁を越えて、支配・被支配の壁を越えて、友情を関係を結びたい。しかし、友人のように振舞っても、不可抗力はそれを友情と呼ばせてはくれない。人が育み、肥大させてきた文明は、貯水池や刑務所、腐った肉にさえ、「まだ」の一言で次の一歩を遮られた。

イギリス人フィールディングの言葉「ぼくはそうなりたいのだ。君だってなりたがってるんだ (=だから、友達なれるんだ)」は、支配者側(イギリス)の言葉であって、被支配者(インド)からすれば、偏に友情を華々しく宣言できず、ましてそれを真の友情とは呼べない。

しかし、「だめだ、まだだめだ」「まだ」からわかるように、否定しているものの、「まだ」であって、「いつか」の未来で肯定されるのである。しかし、それは1920年代では「まだ」早すぎた。あとがきでも触れられていたが、フィールディングはフォースターの分身である可能性が指摘されている。それがフォースターの答えだろう。

 

対立する世界

様々な二項対立が見え隠れする本作。イギリスとインドという統治下の背景、西洋と東洋の文化の対立、インドにおける2大宗教イスラムヒンドゥーの対立が存在する。

宗教が多様なインドであるが、ヒンドゥー教徒が8割なのに対して、イスラム教徒は1割程度である。イスラム教徒である、アジズは宗教面において少数派に属している。しかしながら、医者=インテリとしてインドの中においては上層の人間=支配者として、生活をしている。同じく医者のパンナ・ラルはヒンドゥー教の下級医師である。しかし、イギリスが介入してしまえば結局、アジズは被支配者なのである。

イギリス人の院長が経営する病院に勤めるインド人のアジズ。インド人から圧倒的な信頼を得る代わりに、在インドのイギリス人からは爪弾きにされるフィールディング。アジズと親交のあるハミドゥラとマームード・アリでさえ親イギリスと反イギリスと、正反対の意見を持っている。対立の中に対立が生まれ、複雑な層を成す状況が浮き彫りになる。そのような政治的な混沌から生まれた個々人の心理的な葛藤が、顕著に表れている。

最後に

BBCイギリス文学100選のうちの1冊として本書を手に取ることになった。このリーディングチャレンジをしていなければ確実に読むことはなかったであろう作品なので、いい機会だと思い、読み始めた。正直なところ、読み進めるのが難しい場面が多々あり、感覚的には理解できたのは4割ほどと苦戦した。3章が難解すぎる…。特に宗教的な議論においては、無宗教が一般的な日本人の感覚では当然理解するのが難しい…。もちろん、インドの文化的な背景への理解も必須だ。

そこで、冒頭で触れた『RRR』を鑑賞するに至った。

『インドへの道』におけるフィールディングの役割は、『RRR』であればイギリス人女性のジェニーだろう。作中で唯一、インド人に対して偏見なく、友人としてビームに手を差し伸べている。『RRR』ではもちろん、ラーマとビームの友情関係が中心なのだが、上で述べた「イギリス人とインド人は友情を結べるのか」という問いは『RRR』でも同様に見ることができた。

もちろん、『RRR』はインド人目線、『インドへの道』はイギリス人目線で描かれており、2作品が全く毛色の違う作品であることは置いておいて、いろんな視点からイギリス統治下のインドについて描かれているかを知るいい機会だった。フォースターを読んで、インドのアクションミュージカル映画に行きつくのは突飛かと思うが、個人的にはなかなかおもしろかったので、どちらかしか体験していないという人がいれば、是非試してみてほしい…!!!

 

また、文学ではないが、観光地としてのインドの歴史や文明に優美な文章で浸りたいかたには中谷美紀様のインド旅行記(全4巻)がおすすめ。